[CBD-COP10/MOP5レポ]金銭勘定と生態系の保全

CBD-COP10会期中を通して、ニュースレター『eco』の中にもサイド・イベントの発表においても、何度かくりかえし現れた次のようなキャッチコピーがある。

Life is not a business.
Life is not for sale.
Mother Earth is not for sale.

なんと的を得た表現、いや主張だろうか。
今、多くの人がこのようなことを感じ始めている。

自然現象の規模や農林水産漁業から上がる利益をお金の額に換算することは、COP10の外でもしばしば行われる。たとえば、このハリケーンによる被害は何千万ドルだとか、本年、北九州地域の4県において生態系が健全に機能して大きな自然災害などによって収穫が邪魔されなかった場合、そこから得られる農林漁業の産物すなわち自然の恵みから得られる利益を試算すると全体で何兆円になる、という具合に。

こうした説明には説得力がある。お金に換算するとは、数値化するということである。何でも数値に還元されると、話が単純になりわかりやすくなる。単一の尺度を当てると物事が数字の多寡によって直線的に表示され、比較することができるようになる。それを見ると人は、その現象に関して何かがわかった気になる。

我々庶民ですら、ある行為にとりかかる際に、しばしばそれが自分にとって儲けになるか出費になるかという観点、すなわち目先の得失でもって決断しがちだし、加えて費用対効果の計算も働く(筆者のようにぼんやりした者は、時としてその計算すらできないことも多いが、特に現実的で有能な人間の場合はそうである)。

確かにお金は現代の文明社会で生活していくためになくてはならないもので、なかったら困る。持続的な収入、そして持続可能な収支のバランス。自分の生活に関するそれは、誰しもが日常的に考えている。

ただ、人間として、いや生物としての原点に還ってみよう。お金そのものはそのままの形では食べたり飲んだり、吸ったりできないし、雨や風除けの役にも立たない。人間が生命を維持するのに直接必要なものは、お金ではない。

原始的な社会では人は元々、物々交換をしていた。比較的原始に近い社会でも、貝殻や巨石の所有権が、生活に必要な物資を得るための代償として譲渡・移転されることはあった。それらは現代の貨幣の代替とも見なされるが、元来「象徴」なのだ。もちろん、米、塩、などの実質的な物、あるいは金などの実質的でない物が重量の単位を決められ、秤にかけられて交換された世界もあった。貨幣とは、その延長上で、交換を円滑にするために派生した、道具の1つに過ぎない。だから、人間がお金に使われるとか、拝金主義やお金の蓄積それ自体が目的になってしまうような態度は、本来は人間が生きるうえで本末転倒した姿だといえる。

交換する際の物の値段というのも相対的であって、場合により変動し得る。そもそも交換という行為がいついかなる場合にも厳密に等価交換であるとか、二者間で全く対等、平等でなければならないという理由はない。なぜなら、現存する全ての社会において、人間は生まれた時から不平等なのだから。それを考えれば、より富める者、能力のある者、何らかの意味で他より恵まれた者は、自分に余裕がある限りは、自分より恵まれていない者や困っている者を助ける方が、当然のことではないか。

この観点からすると、食事ができなくて飢えている人がいれば、市場に出せない売れない作物がまだ畑に残っている、すなわち食物の余っている農園主は、それを来年のためにとっておくとか、燃料に換えてでも売るなどという余計なことは考えず、「無料で」(少なくてもその場では『無償で』)飢えている人に、一方的に恵むべきなのだ。こういう主張は現代資本主義社会ではあるいは受け入れられにくいかもしれないが、現代でもたとえばイスラム教徒の多くはこのような価値観の中で自然に育っているので、イスラム社会では大勢で同意を得ることだろう。

お金に換算するとは、数値化するということである。何でも数値に還元されると、話が単純になりわかりやすくなる。単一の尺度を当てると物事が数字の多寡によって直線的に表示され、比較することができるようになる。それを見ると人は、その現象に関して何かがわかった気になる。

けれど、人工物ではなく自然を相手にする場合、全体を部分に裁断することなしに数値化できるもの(現象、と言った方がよいだろうか)は、実はほとんどないといってよい。大体、比較的同質で単位が決まったものしか数値化することはできない。もちろん、きわめて単純で明瞭な数量で表せるものもある。たとえば、ある動物の群れの個体数は調べれば明らかにできるかもしれない。でも、1つの個体の中でどういう生命現象が起きているのか、あるいは、個体の内部で起きていることと群れ全体(種全体、かもしれない)で起きていることが相似形でどうつながっているのか、それを全部数値で表すことはできない。生命とはいろんな要素が絡まり合い、有機的・複合的に連動する現象である。

「命」はそれぞれの個体にとって1つ限りのものであり、代替はない。個々の「生」も、やり直しもきかないし後戻りもできない、1回限りの過程である。

「覆水盆に返らず」という言葉がある。生命を損なったり殺したりすることは、まさに容器の中の液体を地面にぶちまけてしまうのと同じようなことである。その後で同じ液体をそっくりそのまま元の容器の中に収めようとしても、もう遅い。たとえば、飼っていた猫が事故に遭って大けがをした。その猫を、事故に遭う前の全くの健康な状態にまで回復させられるか。たとえば、一度枯らしてしまった鉢植えを、生き返らせることができるか。いずれの場合も、万金を積んでも無理であろう。

我々が自然から与えられているものは、我々が人為的に作り出しているものよりもはるかに多い。というより、それは人間の生存や文化の基盤になっている。

元々あった物を壊してそこに新しい人工的な何かを創り出そうとすることよりも、元々あった物、自分達に恵まれている物を壊さないようにすることの方が、はるかに大切なのではなかろうか。

(柳生澪)

コメントをどうぞ

コメントを投稿するにはログインしてください。